ノスタルジックステーション

茂市駅・蟇目駅等写真のみ順次仮公開開始

盛岡〜宮古
宮古〜釜石
盛岡
上盛岡
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津軽石
上米内
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大志田
陸中山田
浅岸
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区界
岩手船越
松草
浪板海岸
吉里吉里
大槌
鵜住居
両石
釜石
 

山田線
 山田線の延長は157.5キロメートルで、盛岡・宮古間が102.1キロ、宮古・釜石間が55.4キロあります。
また、トンネルが53(延長1万5,050メートル)、橋梁が172(延長4,522メートル)もあり、建設時の苦労が偲ばれます。
開通当時から走っていた蒸気機関車は、昭和45年(1970)2月の運行を最後に姿を消しました。
この間の昭和19年(1944)3月には、映画「大いなる旅路」の題材になった、貨物列車の脱線転覆事故がおきています。この事実は、「超我の碑」として昭和47年(1972)11月に宮古駅前に建立されています。
山田線には、昭和35年(1960)11月にディーゼル車が導入され、翌36年(1961)2月に盛岡・宮古間が全面ディーゼル化されました。
蒸気機関車の廃止を境にした昭和45年(1970)3月には、山田線の全線がディーゼル化されています。
現在、山田線の盛岡・宮古間は、快速で2時間、普通列車で約2時間30分で結ばれています。
また、宮古・釜石間は、快速で1時間、普通列車で約1時間20分で結ばれています。

山田線の歴史
 明治23年(1890)、当時の宮古町の政財界で山田線の敷設運動がおこりました。
明治25年(1892)6月には、帝国議会で可決された鉄道敷設法で、「盛岡より宮古もしくは山田に至る鉄道」として予定線に編入されました。
 その後、路線の技術上の問題、財政事情などから30年も手がつけられずにいました。大正7年(1918)9月に、県出身の原敬が総理大臣になり、再び建設促進の機運が高まりました。
 大正9年(1920)7月には、盛岡・山田間鉄道敷設案が貴族院を通過し、翌10年(1921)10月に盛岡を起点に工事が始まりました。  そして、13年後の昭和9年(1934)11月に宮古まで開通し、昭和14年(1939)9月に盛岡・釜石間の全線が開通しました。こうした山田線の開 通に注がれた情熱は、昭和9年(1934)11月に宮古駅前に建立された、「鉄道開通記念碑」に刻まれています。
 なお、山田線の山田・釜石間は、大正9年(1920)11月の新鉄道敷設法案で、「山田より釜石を経て大船渡に至る鉄道」として予定線に編入されていたものを、延長して建設されたものです。

山田線の長期寸断
 山田線は、昭和22年(1947)9月のカザリン台風で、松草・平津戸間、茂市・蟇目間が不通になりました。
 この復旧半ばの翌23年(1948)9月にはアイオン台風が襲来し、平津戸・蟇目間の約45キロメートルが寸断されました。
 このため、昭和24年(1949)に山田線復旧期成同盟会を結成し陳情が続けられました。
本格的な復旧工事は、昭和27年(1952)2月に始まり、昭和29年(1954)11月に全線が復旧しました。
 この時の沿線住民の喜びは相当のもので、宮古でも3日間にわたり祝賀行事が繰り広げられました。

     

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